小学2年生になる友人の子どもが、いつまで経ってもプールで泳ぐのが怖いという。クラスの友だちはどんどん泳げるようになっていくのに、その子だけはカナヅチのまま。今年もプールの季節がやって来るし、去年同様、学校へ行くことすら、いやになってしまうのではないかと困り果てた友人に、私は一冊の本を贈った。馬場のぼるさんの『がまくん かろくん』という絵本だ。かえるなのに泳げないがまくんに、かろくんはあの手この手で特訓をする。体に釣り糸をつけてみたり、川沿いの木にロープをつなげ、ブランコのようにして泳がせたり…。失敗の連続でも、ほかにいい方法はないかと考えるかろくんと、その気持ちに応えるべく、決してあきらめないがまくん。最後は見事、泳げるようになるのだが、友人から、子どもがこの絵本を読み、プールに対する苦手意識を少しずつ克服しているようだと報告を受けた。


泳げるひとに「あなたはなぜ、泳ぐのですか」と訊ねたら、恐らくほとんどが「気持ちいいから」「水のなかは癒されるから」と答えるだろう。私だってそう返す。しかし、本当にそうだろうか。冷静に考えれば、泳ぐことはとてもしんどい。水のなかでは、息を吐くことはできても吸うことはできないし、体力だって極端に消耗する。ちょっと気を抜けば、水が鼻から入ってツーンとする。陸上にいれば決して味わうことのない苦しみが、水中では待っているのだ。もし、間違いなく誰もが水のなかで癒されるのなら、冒頭の子どもだって何の問題もなくプールに
馴染むはずじゃないか。それなのに実際は、泳ぐのが苦手だったり、水に顔を浸けることすら怖いと思ったりするひとがいるのはなぜだろう。
そんなことを考えながら、半年ぶりにプールへ行ってクロールをした。泳ぐことは苦手ではないが、着替えるのが面倒などの理由で、ついプールから遠ざかっていたのだ。手のひらで水を掻き、バタ足をする。全身に水圧がかかり、かきわけるようにして前へ進む。うまく進んでいるときは、確かに気分がいいけれど、少し気持ちが緩めば体は沈み、息を吐き出すことさえままならなくなる。手足が疲れれば思うようにスピードは出ないし、意志に反して下半身から沈んでいく。なんだ、泳ぐことは「癒される」とか「気持ちいい」とか、そんな言葉とは正反対の行為じゃないか。そう思わずにいられない。

ひとは、なんのために泳ぐのか。ただそれだけを考えながら、25mコースをクロールで何回も往復した。そうするうち気がついたのだ。水中という、安定性のない不確実な空間のなかで、適度に力を抜きながらひたすら前へ進もうとする一途な行為は、なんて能動的で、積極的で、主体的な行為なのだということに。ただ単に、無重力の空間に身を置くから癒されるのではない。大地から足を浮かせ、一種独特な異空間のなかで前進することだけを考える、無欲の真剣勝負が心の糸を張りつめる。そして、その集中力が極限まで達したとき、ひとはどこか突き抜けたような気持ちよさを感じるのだ。

もし、泳ぐことが何の苦労もなく、100%気持ちいいだけの行為なら、きっと泳ぎ続けることは難しい。そこには成長も努力もなく、ひとはその行為に飽きてしまうからだ。木は、根っこを地中深く張り巡らせたほうが、高く伸びることができるように、スポーツにしろ何にしろ、快楽とは正反対のエネルギーが働くか らその行為はひとの好奇心をくすぐるのであって、そう考えると泳ぐことは、決して受け身の姿勢で気持ちよさを追求するだけの、他力本願のリラクゼーションではなく、困難のなかから自力でしあわせをつかみ取るチャレンジングな行為なのだと
理解できる。それなら泳ぐことがしんどいものに思えたって当たり前。「25mしか泳げない」「タイムが遅い」など、できないことに目を向けるよりも、泳ぐという行為に挑戦する自分を誇りに
思ってもいいくらいだ。


とうとう、がまくんが泳げたとき、一生懸命彼を応援していたかろくんは、「がまくん、よかったなあ」と温かく言った。チャレンジを続けた先にがまくんが見つけたものは、泳ぐことで得
られるリラックスや気持ちよさだけではなく、苦手だったものを克服した達成感や充足感だったからこそ、その頑張りを近くで見ていたかろくんは、「よかったなあ」と言ったのだ。私自身、
いつもなんだかんだと言い訳をしてプールから遠ざかっていたけれど、それはやらない理由を考えていただけ。そんなことで頭を使うより、「泳げばわかる」とばかりに、ポーンとプールへ
飛び込んでしまえばいいのだろう。初めてプールで泳いだときの様子は、もうとうの昔で思い出すことはできないが、今まさに、腕のひとかきや足のひと蹴りが文字通り自分を成長させる推進力になるのだと考えれば、「あなたはなぜ、泳ぐのですか」という問いに対する答えも、おのずと変わってくるはずだ。